翻訳と辞書
Words near each other
・ 高湝
・ 高湯
・ 高湯温泉
・ 高湯街道
・ 高満洋子
・ 高源寺
・ 高源寺 (丹波市)
・ 高源寺 (行田市)
・ 高源浚
・ 高源院
高源院 (世田谷区)
・ 高源院 (鍋島勝茂正室)
・ 高溶陶材
・ 高滔滔
・ 高滝
・ 高滝ダム
・ 高滝村
・ 高滝湖
・ 高滝湖PA
・ 高滝湖パーキングエリア


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

高源院 (世田谷区) : ミニ英和和英辞書
高源院 (世田谷区)[こうげんいん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [みなもと, げん]
 【名詞】 1. source 2. origin 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [く]
 【名詞】 1. ward 2. district 3. section 

高源院 (世田谷区) : ウィキペディア日本語版
高源院 (世田谷区)[こうげんいん]

高源院(こうげんいん)は、東京都世田谷区北烏山にある寺院。臨済宗大徳寺派に属し、本山大徳寺山号を「瑞泉山」という〔。創建は1703年(元禄16年)で、旧地は品川であった。1893年(明治26年)を境に無住となり、関東大震災の被害にも遭ったため復興を図って1939年(昭和14年)に現在の地に移転してきた〔。高源院は「烏山寺町」を構成する26の寺院の1つで、敷地内にある泉水(弁天池)は「烏山の鴨池」として「せたがや百景」に指定されている〔〔『せたがや百景』56-59頁。〕〔『せたがや百景』93頁。〕。1985年(昭和60年)3月1日には「烏山弁天池特別保護区」(2,322平方メートル)に指定された〔『宙水をご存知ですか? -地下水を保全し水辺環境を守るために- 平成25年10月』〕。
== 歴史 ==
京王線千歳烏山駅から、甲州街道を渡って寺院通り(約600メートルの長さがある道路で、烏山寺町のメインストリートにあたる)のある北方向を目指して歩くと、約15分で烏山寺町に入る〔。中央自動車道の高架をくぐる手前にある妙高寺などを過ぎて寺院通りをさらに北方向へ歩くと、最後に出会う寺院が高源院である〔。
臨済宗大徳寺派に属し、本山は大徳寺、山号を「瑞泉山」という〔〔〔。創建は1703年(元禄16年)で、開山は大徳寺第253世怡渓宗悦(1644年(正保元年) - 1714年(正徳4年))、開基は筑後久留米藩の第4代藩主有馬頼元(1654年(承応3年) - 1705年(宝永2年))である〔〔。
頼元は文武両道に秀でた人物で和歌や絵画の心得もあり、久留米藩を38年にわたって治めていた〔〔。晩年になった頼元は、有馬家の菩提寺である祥雲寺輪番を務めていた怡渓宗悦の高徳に惹かれた〔〔。
怡渓宗悦は浅井長政の後裔であり、仏道を修める傍ら茶道片桐石州に学び、のちに石州流怡渓派の創始者となった人物であった〔〔『せたがやの寺町』22頁。〕。怡渓宗悦は1693年(元禄6年)に愚渓に嗣法して、大徳寺253世の法主となった〔〔。退隠後に江戸に戻って頼元の帰依を受け、北品川に一寺を建立した〔〔。
当初は品川の東海寺塔頭として建立されたことが、『新編武蔵風土記稿』に見える〔『烏山寺町』136-137頁。〕〔。前掲書の巻之五十六、荏原郡之十八、北品川宿の項に「額門ヲ入テ右ニアリ。有馬氏起立ス。開基ハ養福院高源宗隆大姉。開山ハ法忍大定禅師
ナリ」と記述されている〔〔。山号は頼元夫人の法号「養福院高源宗隆大姉」から、「高徳院」と称したと伝わる〔。
旧地の境内には、一隅に「宝生弁才天」と称する木像を祀った鎮守堂があった〔〔〔。かつては品川七福神の随一と呼ばれたもので、木像は仏師として歴史に名を残す運慶作と伝えられるものだった〔〔。1818年(文政元年)に、久留米藩第9代藩主有馬頼徳が赤羽にあった久留米藩の上屋敷内に国元から勧請した水天宮に祀られていたものである〔。赤羽の水天宮は有馬家の屋敷神であり、1868年(明治元年)に有馬邸とともに青山に移転した後、5年後の1872年(明治5年)に蛎殻町に再移転した〔。木像の方は、有馬家の菩提所を務めていた高源院の鎮守堂にしばらく安置されたのちに蛎殻町の水天宮に移ったという〔。
高源院は、1893年(明治26年)に無住の寺となった〔〔。無住の時期は、本寺である祥雲寺の住職が兼任で住職を務めていた〔〔。
高源院は、1923年(大正12年)の関東大震災で大きな被害を受けて廃絶状態となった〔〔。有馬氏の一族は高源院の復興を計画し、烏山の現在地に2,000の土地を購入して1939年(昭和14年)に移転を果たした〔〔〔〔。
寺院の建立にあたって境内に泉水を掘ったところ、水源を掘り当ててやがて豊かな水をたたえる池となった〔〔〔〔。もともとこの地には「亀の子(甲)出井」(大亀出井)と呼ばれる湧水地帯で、3か所に湧水があって徳川時代以前は烏山川の主水源となっていた〔『烏山の寺所をたずねて』30-31頁。〕。「亀の子(甲)出井」と約2キロメートル離れた井の頭池の水源は地下でつながっているため、井の頭池が増水するときはこの出井も増水し、減水の時は同じく水位を下げるという〔。
池の中央には「弁天堂」という浮御堂を建て、岸との間は赤い欄干の橋でつながっている〔〔〔。この池には1960年(昭和35年)の秋からコガモカルガモマガモなどが飛来するようになり、都会の中での越冬地としての役割を果たすようになった〔〔。池は「鴨池」または「弁天池」の通称で呼ばれ、1984年(昭和59年)に「烏山の鴨池」として、「せたがや百景」に選定された〔〔。なお、1985年(昭和60年)3月1日には「烏山弁天池特別保護区」(2,322平方メートル)に指定された〔〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高源院 (世田谷区)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.